入門楽譜を考える(1)

ヘ音記号に馴染もう!」という話をしようと思い、ではなぜそもそもヘ音記号の馴染みが悪いのだろうと考え始めまして、とうとう"入門楽譜"の話の必要性まで感じるに至りました。 (以下、α法とかβ法という区分けをしていますが、この文章中での便宜上の処置ですのであしからず)

【α法】使用楽譜によりますが、まず入門時にはよく、 ト音記号は、右手で弾く。 ヘ音記号は、左手で弾く。 という前提で教わります。

 実はト音記号=右手、ヘ音記号=左手でもないのですが、 特に子どもたちの場合は、そのよくあるパターンを一つの定型として、ピアノの学習をスタートしないと、混乱の要素となるからです。
学習者は、ピアノ88鍵の真ん中に座り、中央のドから両側へ広がるようにト音記号やヘ音記号を覚えていきます。
この場合の欠点は、右手の「どれみふぁそ」と上がる方は良いのですが、「どしらそふぁ」とおぼえる左手の音階は、子どもにとって、下降するからその論理なのだとわかってもらいにくいことです。

【β法】右手も左手もト音記号から音名をおぼえるスタート。次のページも次のページもト音記号。 ヘ音記号が出てくるのはかなり学習が進んでからで、例えば、数ヶ月後に、五線譜に二種類の読み方があったと知り、すっかりト音記号だけで満たされた脳の切り替えは一苦労です。

ここに有名なピアノ入門の本、バイエルがあります。

わっ、バイエル圧巻ラインナップ!関連本まで含めて1244件の検索結果でした。 

 バイエルでは、まずト音記号をしっかりと叩き込み、途中まで、左手もト音記号で書かれています。つまり【β法】方式の代表格です。
この楽譜はト音記号のしかも高い方のドからスタートしているので、この音程からいずれ出てくるヘ音記号への距離を自然な流れで理解することには、力を入れていません。
つまり、このバイエル教本もやっとこさ、随分ページを重ねト音記号の読み方に慣れたところに、ある日ヘ音記号の存在の告知を受けるわけです。

 学習者は、“これでもか!状態"で、バイエルが求めるくちゃくちゃとした指先運動に耐えてきた後なので、実のところ、ここら辺で疲れきっています。「思ったよりすぐ弾けないし…。自分は向いていないのかな?」と。 (注:くちゃくちゃとした指先運動は、実はもっと先で、テクニックの後ろ固めとして役に立ったことを知るはずです。ただちょっと以前の昭和生まれの学習者達とは違って、ナイーブ気質の平成現代人には心が萎えてしまいがち。そういうわけで、まだこの段階で、このくちゃくちゃ試練の最中、さらに新たなヘ音記号の試練が加わるとあっては、もうヘトヘトだぁというケースを幾つも見てきました。
 バイエルは「どうだ、君はこれを乗り越えられるか?」型の、常に自分の未熟を知らされる否定形の方法に見て取れます。巨人の星です。
打たれ強い方(なにくそ精神の持ち主)、他にすぐ気移りしないタイプの方々なら、この本をお薦めします。なぜなら結局、実力の基礎固めにはやはり有効な楽譜であることは間違いないからです。
 19世紀、せいぜい20世紀中盤までは、何しろ、楽しいテレビやゲーム、インターネットもなければ、学習塾や残業でお疲れ様という観念がなかったからこそ、ありがたく、熱心に取り組めたのだろうなぁと想像します。

 ところでバイエルという本、世間には、単に本のタイトルと思われていることが多いですが、これは人名です。
フェルディナンド・バイエル。1803年7月25日生まれ。ドイツの作曲家で1863年に亡くなっています。この有名な本が出版されたのは、1850年のことですから、えーと、164年前。それって日本では、ペリーが黒船を率いて浦賀に来航する前のことです。それが今でも出版され続け、熱い支持を得ているのですから、これぞクラシックの凄さですね。

 昔からある入門書のもう一つは、“メトードローズ”。こちらはドイツのバイエルに対して、フランスで書かれた入門書です。

オレンジの三冊が旧版で現行版、うち右上二冊は大きな楽譜で書かれた幼児用。下の三冊は「新しいメトードローズ」という別のシリーズ。写真にはないが、ネコ階段柄の表紙の下巻も別に存在していている(していた)。

 これを日本で使う人は、バイエル人口の1/3位でしょうか。(と想像していたけれど、バイエル教則本がすごい数なのに対して、こちらの検索結果は極めてシンプル、なので、せいぜい1/10の使用率かも…)しかし自信を持って申し上げますが、メトードローズは、バイエルにそこまで引けをとるような楽譜ではありません。日本のバイエル信仰は過度すぎます。 さてメトードローズ、タイトルの訳は"バラのメソッド”。 薔薇のように花咲く教本とは、ガーデン好き教室としては、very good(^o-)! エルネスト・ヴァン・ド・ヴェルド(生没年不詳)というフランスのピアノ教師が書いていて、日本では1951年から出版されています。日本ではとても有名ですが、世界的には意外と知られていないようで、資料もあまり出てきません。 下記に唯一、メトードローズについて書いていらっしゃる、パリ在住の日本人演奏家、横山真一郎さんのブログ。パリの東からの一部を引用させていただきます。

メトード・ローズとErnest van de Verde
新訂 メトードローズ ピアノ教則本(ピアノの一年生)
エルネスト ヴァン ド ヴェルド日本でもおなじみ「メトード・ローズ」は、かつてはフランスで最も使用されたピアノ教則本である。今でも楽譜屋にたくさん置いているところを見ると、使っている先生はいるのだろうが、見たことはない。現在フランスのコンセルヴァトワールで最も使用されているのは、“Méthode de piano débutants” という教則本だと思う。

しかしぼくは一人だけピアノの生徒がいるが、「メトード・ローズ」を中心に教えている。“Méthode de piano débutants” も見てみたが、どうにも使えないのだ。何が、と聞かれても答えにくいが、何か底が浅いように思える。

さて「メトード・ローズ」の著者は Ernest van de Verde(エルネスト・ヴァン・ド・ヴェルド)という人で、日本ではほとんど知られていないと思うが、この人は何とヴァイオリンの教則本も書いているのだ。「プチ・パガニーニ」という本で、こちらはフランスで現在も盛んに使用されている。

ピアノとヴァイオリンの双方で、これほど広く使用されている教則本を書いた(おまけに自分で出版社まで作ってそれらを出版した)なんてすごい人だと思うのだが、どういう人だったのか、インターネットを見る限りさっぱりわからない。ウィキペディアにもフランス語版に申し訳程度にちょっぴり書かれているだけだ。
名前からしてもオランダ系(あるいはフラマン系ベルギー人)だし、謎の人 Ernest van de Verde とはどんな人だったのでしょう?

 さてこのメトードローズ、左ページは、新しい知識と簡単な練習、右ページにはその応用編として、フランスの童謡や小曲が並べられています。
それらの作品は可愛らしくもあり、刺激が少なく地味ですが、全体としてはこれも良い本です。黒とオレンジで書かれたこの楽譜、一冊が終わる頃にはその配色が忘れられなくなっているでしょう。
 “だいたい基礎の基礎は理解している様子"の人が、ここ千鳥クラヴィアハウスの教室の門を叩いてくれたケースでは、しばしば知識や技術の確認で使っています。入門時は、バイエルと同じ【β法】です。
 そうそう、そういえばこのメトードローズには実は新板「新しいメトードローズ」(1994年初版?)があって、そちらはとても可愛い猫ちゃんが階段を上がっていく表紙と、アヒルがピアノを弾く表紙の本に分かれ、中身もいい感じに変わっているのですが、絶版になってしまったようです。(計4冊シリーズというのがまずかった?)
とても気に入っていたのに、惜しいものです。(旧版は出版され続けています)
近年、良い楽譜がどんどん姿を消して行きつつあるのは、とても悲しい事実です。

そもそもピアノ入門譜の歴史を辿るなら、これらを【α】と言うべきだったかもしれませんが… さてさて、思ったよりも長いストーリーになってまいりました。
また、続きを書きます。