育てる

 昨今の感染恐怖の時期はとうとう三年間にも及び、「さすがにもう普通の生活をしようよ」と、しかしマスクを外してそれを声高に言うほどの自信はない、なんだかまだ萎縮した、そんな2022年の秋です。

「もうすぐこの状況は終わる、もうこれで最後の期間だよね…」の希望に対して、すっかり懐疑的になってしまい、加えて国際情勢、容赦しない自然災害、経済不安と、ニュースは、さすがに食事しながら見たいものではなくなってしまいましたね。

 だからなおいっそうでしょうか。私は感じるのですが、若い保護者とのふれあいの中で、子どもたちを幸福な環境で育むべく深く考え、たくさんの愛を注いでおられる気がします。

 子どもの成長。確かに十代前後は、一生のうちで何かを身につけるには、極めてピーク時期で、この頃の子どもたちは、吸収の良いスポンジのようにたくさんのことを身につける能力時期です。だからこそ教育は、世がどうであれ、保護者が願いを込め、若さに授けたい無償の愛の形なのです。
 子どもが吸収する能力、私が実感するのは、例えばピアノにおいても、急に頭角を表す時期があったりして、彼らは不思議な変化に満ち満ちています。

 同時に人間的な面でも然り。当初、必要な話でさえ伝わっているのかいないのか、無口だった子どもが、教室の先生と数年の仲になると、人間同士として打ち解け合うようになり、考えや本音などじわっと思いを理解できるようになります。
 当然、親という立場とは別で、もちろん友人という立ち位置でもない、でも長いこと個人対個人で接しているので、学校の先生とも違う、胸襟を開いて語ってくれる瞬間が存在します。
もちろんピカイチのピアノレベルに到達しているかは、答えは必ずしも一つではありません。しかし、こうして時代を超えていくと、まだ小さかった子が、長年の信頼関係の中で成長し、人間同士としても、ピアノの存在をごく自然なものと捉えている様子にふれられる。例えそれがこちらの錯覚であろうとも! 少しずつ大人への階段を上がっていく様子と、ピアノの成長を同時に見守れる幸福は、教え手には代えがたいものです。
 どこの指導者も同様とはいえませんが、少し、メンタルトレーナーみたいな側面もピアノ教室にはあるのですね。

 指導をしていての本音は「No1でなくてもいい」(おや、そんな有名な流行歌が頭で鳴り出し……)、十五の多感な頃も、二十歳に成長の時、仕事を持ってからも、いいえリタイヤしても、その人が楽器と共にあり、弾く曲がそこにあってほしい、という願いは隠せません。

 時にきびしい指導が辛く感じたり、評価が期待通りでなかったり、停滞期が訪れたり、落ち込み経験もあるかもしれません。でもそうするとほんの時折の小さな成功の輝きが増すものです。
失敗から学び取ることと、克服の道のりこそ、最も良い人生資料です。

 音楽、とりわけ自分で空間をあやつれる演奏という不思議なパワーが、学習者にとって魅力を感じる人生の友になりますように。